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冬服はかさばることもあって
シンプルであったかい(特段好きでもない)やつを
三種類くらいしかもってきていなかったのだが
やっぱり服は、好きなのを着た方が精神衛生にいいかもしれない…
なんというか自己表現の幅がすごく狭くなってることが
自己肯定感をぶち下げてる気がしてきた
自分のやりたい・やっていることもひとことでは伝わらないから
しぶしぶ「イラストレーター、グラフィックデザイナー」と
言っているけど、たぶんみんなが想像するそれらの肩書とは乖離があるし…
なんとか自分の思考を伝わる形にしようと躍起になっていたけど
逆に空回り、上滑り感もあり
まずは好きなものを好きなように愛でるという
それだけで必要十分なのかもしれない
私自身がcollectionの凝集点であり、recollection を携えて生きる者
自分の記憶を自分が大事に出来なくてどうする、、
富嶽百景
インスタのストーリーに富士山をアップしてくれる人へ
ありがとう
オデ、富士山、大好き
特に、個人的な画角から撮られた富士山が・・・最高
人生って富嶽百景だと思うんだよな
あるひとつの対象が、何かの因縁をもって
その時々の心持ちや状況によって
違ったあらわれ方をしてくる
期待も失望も、情けなさも心強さも、畏怖も可笑しさも、
我と汝のあいだに、プリズムのように光りながら躍り出てくる
人生の意味は再会にあり、
人生の味はおどろきにあり
と思うところの源泉かも
曇りで富士山が見えない日に、旅館の女将さんが誰かが
本当だったらこのへんに見えるはずなんです!と頑張って示していたのを「あの富士は、良かった」と振り返るシーンと
てっぺんに雲がかかっていて、
それが晴れたとき、予想したよりも高いところに頂があって
「やっていやがる」と破顔するシーン
太宰の、人間存在の可笑しさを見つめる優しいまなざしが溢れ出してて大好き
映画「PERFECT DAYS」のこと
役所広司主演の「PERFECT DAYS」を、モロッコから来ている哲学教授の知り合いに教えてもらって観た。
なんか・・・すんっごい映画だった・・・。
ラストシーンに全てを持っていかれたよね・・・
▼以下ネタバレを含むので反転して読んでください
序盤から、運転のシーンの映し方と表情にいわくありげな感じがしていて、最後の最後で合点がいったというか、そうか、この人はもうずっと「そう」なんだ。
うつりゆく世界と人間のかなしみと美しさに、ずっと思いを馳せてたんだ・・・と思い至って・・・平山さん、わかります‼️‼️‼️😭😭😭🤝🤝🤝って勝手に爆・感情移入していた
途中まで、変化を避けている人なのかと思って観ていて、「平山さんの暮らしはおれが守る・・・」(平山さんの何?)ってなっていたのだけど、違った・・・
平山さんは何よりも変化を愛してたんだ・・・😭
インスタにスレッズの投稿が(勝手に)表示されるようになってて
いろんな人の感想が流れてきてたので試しに見てみたら
なんか…ぜんぜん見るところが違ってびっくりした
確かに、日本版のコピーはミスリード感がすごい
「こんなふうに生きていけたなら」ちゃうやろー!!!!!!ってなる
「日常の中に小さな幸せを見つける」とかそんなヤワな話じゃあないんだよ…
あと最後のシーンから「悲壮」を読み取ってる人もいてびっくりした
いや、「悲哀」だけど、「悲壮」じゃないじゃん!
わたしはあの映画の最大のテーマは「慈」だと思ってるけど
「悲」しか読み取らない人もいるんだと思って驚いた。
まぁ、いろんな受け取り方をする余地がある作品ということで。。
ただなんか評論家気取りで自分の解釈が正しいみたいな書き方をする人と、(自分も例外ではないが…)
それに反射的に強い言葉で反応してしまう人たちばかりで
なんかSNS空間って本当にしんどいなと思う
美意識の矛先について
芸大を卒業して2年経って、大学院に出願しようとしていたとき、
百万遍の交差点のローソンで彫刻専攻の先輩にばったり会った。
先輩は「最近、帰ってきて、玄関をあけたときに”赦し”があったらいいのに・・・と思う」というようなことを言っていて、今にして思えば久しぶりに会ってローソンのアイス売り場の前でする話とは思えないが、いまだにそのやりとりをふと思い出す。
その先輩は、現象として彫刻をやっているようなところがあって、とても好きで尊敬していた。
私は、思想ばかりが先に立って、純粋に彫刻という現象に向き合えていないような気がしていた。
芸大で得た最も大きな学びのひとつは、芸術において重要なのが、センスや思想ではなく、むしろとにかく「マメ」であることなんじゃないかということだ。
「マメ」さというのは、美意識に通じている。
自分自身が、何か守りたいものや、許せないものがある時に、それに対してどこまで誠実であれるかということが、その人自身の美意識の矛先を決めるのではないかと思う。
芸術のやることというのは、その矛先をするどく研いでいくことなんじゃないか。
自分は、そのような「マメ」な人たちのありように惹かれて彫刻専攻にいた気がする。
もちろん他の専攻にもその要素はあるが、彫刻はいちばん空間的・物質的負荷が大きく、そして孤独だ。
物体や行為それ自体が作品(work)になるあたり、現象としての純粋性が高く、産業廃棄物から生み出した作品がまた産業廃棄物になっていくこともしばしばある。危険な道具も多く、死との距離も近い。
いちばん寄る辺ない領域であるように、当時は思っていた。
その寄る辺なさと、孤独さは、互いのテリトリーを尊重しながら「寄り合い」をつくるような独特の空気を醸し出していた。
自分は「マメ」さのかけらもない落ちこぼれで、大胆さと不遜さを履き違えて迷惑ばかりかけていたが、そこに寄り合うひとたちの距離感は美しいと感じていた。
沓掛のキャンパスはもうなくなってしまったけど、徹夜してぼろぼろの身体で浴びた朝の光も、黄ばんだ校舎に注ぐ夕方の光も、あの場所でみた人々の発するいろいろな種類の光も、残像として脳裏に焼き付いている。
もっと潔く、鋭く、美意識の矛先を研いでいきたいなと思う。
あ、来年の抱負です。
a world blanketed in fluffy snow
ブログでも書くかと思った。
自分の思考を外化することは健康に良い、多分。
ここのところ、煮詰まった感傷が胸の奥に溜まっていささか胸焼け気味だった。
自分は「感極まり」の沸点がだいぶ人より低い自負があるので、
大体のことで感極まって「胸がいっぱいに」なっている。
「感」でいっぱいになった胸をどう処理するか、というところは人によって違うのかもしれないが、私の場合はとろ火で数日間じっくり煮詰めているような感覚がある。
人々の優しさや正直さ、魂の発する光のようなものが、きらきら弾けている。
ただ、その光には奥行きと質量があって、深追いしすぎると自分が引き裂かれてしまう危険もある。「感」が「感傷」に進化すると厄介で、光の残像を独りよがりにこねくり回すことになってしまう。
昨日、マサチューセッツでは今年初の大雪が降った。
自分は関西圏で育ったので、大雪には馴染みがない。
色々と大変なことはあるが、やわらかな非常事態という感じがして、浮き足立ってしまう。これを書いている今は土曜日の朝なのだが、ほうぼうから、雪かきをする音や、屋根の上から雪の塊がドシャッと落ちる音が聞こえる。「甲斐甲斐しさ」を感じて嬉しくなる。
ちょうど、ここにきて4ヶ月くらいが経ったことになる。
まさに光陰矢の如し。図書館のフリーELLクラスに行ったり、教会に行ったり、なんとなく毎週のルーティーンもできてきて、ますます一週間が経つのが早く感じている。
図書館のELLクラスは、英語を学びに行くというよりももはや友だちに会いに行っているという感覚のほうが大きい。
言葉が不自由であることで、かえって魂に直接触れられるような感覚もある。
利害も立場も関係なく、人と関わることができることが嬉しい。
大切な人が増えると、尊重したいことが増える。今世界で起こっていることも、歴史のことも、もっと知らなきゃ!と思うことが大量にあって焦る。
滞在はあと5ヶ月。大体折り返しということになる。
焦らず、ゆっくりと、少しずつ手繰り寄せていきたいと思う。

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言語は想像力に翼を与えてくれるものだと思うが、
それが不自由なとき、翼をもがれたような
痛みを覚えることがある。
ボキャブラリーが貧しいせいで、言いたいことそれ自体も貧しくなってしまうとき。
自分の「聞き取れる範囲」でしか相手の言っていることを聞き取れず、相手の思考それ自体を矮小化してしまっているように感じるとき。
視界に靄がかかったような、思考に枷がかけられるような感覚になる。
自分が入っていけてないだけなのに、疎外されているような感覚を覚えてしまう。
母語で考え、表現できることがどれほど豊かなことかとしみじみしつつ、、
苦しいけど、歯を食いしばって乗り越えないと、この壁は一生越えられないんじゃないかと思うと、頑張るしかない。。。
別に、英語が全てというわけではない。
劣等感を感じるいわれなんて本当はないはずだ。
その言語に興味があって、その言語で語られることをそのまま受け止めたいから、やれる限りやってみようというだけのことだ。
信仰の流れ込むところ
宗教を研究したい、というとき、その人自身が信仰心をもっているのか、ということがよく取り沙汰される。
いわゆる「内在的理解」の問題だ。
信仰という独特のパースペクティブは、中に入り込んでみないかぎり、外からながめて対象化された、無味乾燥な分析にしかならないのでは、という話である。
これにはずっと、悩まされてきた。
半分は、それはそう、と思う一方で、
もう半分では、そうとも限らないのではないか、とも思うところがある。
もちろん、その世界に入れることなら入りたい、と思うし、
たんなる物見遊山のつもりでは毛頭ない。
さまざまな宗教的儀礼や祈りの場に参加させてもらうときは、その都度、心の底から神を、仏を、拝する気持ちがある。
敬虔さに近い感情は自分のなかに存在する。
だが、信仰心のようなものに関しては、どうしても、その一線を超えられないと感じる。
それを阻んでいるのは、決して猜疑心ではない。
私には、父と子と精霊も、アッラーも、釈迦如来も、阿弥陀如来も、天照も、大日如来も、等しくすばらしく、美しく、完全な存在に思える。
どれかひとつの宗教なり宗派なり教えなりが絶対的に正しいとはどうしても思えず、それぞれに人を救う力があると信じられる。
そして、ひとつひとつの形は結局のところ、人が生み出しているものであって、
人々がその都度、切実に求めた結果あらわれてきた美しい形だ。
人類の想像力と、それを具現化する力、そして、長い歴史のなかで培い、守っていく力、それ自体に対して、自分は礼拝しているのではないかと思う。
それらの人為に、光や音や香りという、理屈では割り切れない、説明しきれない、ふしぎな要素が混ざりあい、重なり合って、religiousな空間が生まれる。
religionの語源が「結びつける」ことにあるのは有名な話だが、そのconsistencyを生み出す力の源泉が一体何なのか、というところは、謎につつまれている。ティリッヒが、「unbedingte Gehalt / Ultimate concern」ということばをつかって考えていたことも、その近くにあるのではないかと思う。
自分がいま敬虔さを感じているのは、それはおそらく人類と自然が織りなすマーブル模様の歴史の襞に対する畏敬なのだ。
自分が本当の意味で信仰を持つことができるのかどうかということは、わからない。
ただ、どうしたらその陰影に迫れるのか、ということを、ずっと考えている。
結局のところは、自分が芯から救われた、というような経験が基礎になるのではないかと思う・・・
すなわち回心というやつ。
とはいえ、回心至上主義みたいになってしまうと、一歩間違えばカルトまっしぐらなのでそれはそれで危険なのだが・・・
西谷啓治が言っていたこの一文が忘れられず、心に刻み込まれている。
宗教は、他のあらゆるものが我々にとって必要であるといわれるその同じ生の段階では、決して必要でない。
ただ他のあらゆるものが必要性を失うころ、その効用性を発揮し得なくなるところ、
それらがすべて役に立たなくなる生の段階において、初めて宗教が必要となり、
生における宗教の必然性が自覚されてくる。
きっとまだ、そのときではない。
そのときがくるのを、窓をひらいて歓待していたいと思う。